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秋葉原・通り魔事件の犯人は、2ちゃんねる(インターネット掲示板)で「神様」と崇められているそうです。厳しい労働条件の派遣社員、いつリストラされるか不安を抱える日々、いつまでたっても親友ができない、恋人ができない……。このような境遇の犯人に対して、同じような人々(俗に「負け組」といわれている人々)から、「社会への復讐、よくやった!」と賛辞を贈られているのです。恐ろしく、悲しい事態ですが、これが現実です。 この犯人や、彼を神様と崇める人々の共通点は、「自分と他人を比較する」ということです。それが悲劇のもとです。 人類最初の殺人事件であるカインによるアベルの殺害も、比較が原因でした。カインだって、神様の前に精誠を込めて供え物を捧げたのです。それなのに神様は、アベルの供え物しかとられなかったのです。カインはアベルと比較して、自分の方が劣っていると感じ、アベルを憎み、殺してしまいました。 比較なんてしないで、想像力を発揮すれば良かったのです。 「自分も頑張ったけど、アベルはもっと頑張ったのだろうな。だから神様にとられたんだ」 そう想像できれば良かったのです。かの通り魔犯人も同じです。否、私たちも同じ。他人と比較して、他人を憎んだりします。憎むとまでいかなくても、うらやましがったりして、ちょっと嫌味でも言ってみたりします。冗談半分に言ったつもりでも、言われた方はものすごく傷ついているかもしれません。 「こういうことを言ったら、傷つくかもしれないな」と想像力を発揮できれば、変なことは言わないものです。 先日、私もちょっと傷ついたことがあります。ある教会スタッフに、こう言われたのです。 「光言社さんは土日が休みなんですか? 仕事もみ旨でしょ? み旨に休みなんかありませんよ。現場の教会員は休む暇もなく、必死に頑張っているんですよ。現場の苦労が分かってませんねえ〜」 まあ、冗談半分に言われたのですが、それでも会社に責任を持つ立場の者としては、カチンときました。 弊社の社員は皆、仕事をみ旨だと誇りに思っています。それなのに、あたかも弊社の人間が、仕事をみ旨と思っていないように言われたことに、傷つきました。 弊社の社員は皆、会社の仕事だけがみ旨だとは思っていません。家庭での家事、所属教会での奉仕活動、伝道活動などもすべて、み旨だと思っています。会社は土日が休みであっても、社員たちはそれぞれの場所でみ旨を歩んでいます。会社が休みだからといって寝て過ごしたり、遊び回っているわけではないのに、想像力が発揮されないことに落胆しました。 弊社の社員は皆、会社を離れれば一教会員であり、所属教会があります。同じ現場の教会員なのです。夫や妻が教会スタッフの社員も多いです。ですから、現場の苦労はよく知っています。私の妻だって、帰ってきたのはついさっき(0時20分)です。小さな子供を抱える家庭としては、私が家事をこなすしかありません。1日8時間、週40時間しか会社にいないで、大の男が炊事・洗濯をしているからといって、「現場の苦労が分かっていない」などと言うのなら極めて短絡的だと思います。 そもそも会社で土日を休みにするのは、「週40時間を超えて労働させてはならない」という労働基準法があるからです。この法律に違反すれば6ヶ月以下の懲役に処せられます。法律を遵守することは、会社にとって、否、社会人にとっても基本的な要件です。会社という「公器」が平気で法を破っては、子供たちに示しがつきません。会社法人が社会的責任を担っていることを想像できずに、「土日休日」という表面的なことだけをみて自分と比較し、嫌味を言う姿勢に、正直なところがっかりしました。 重ねていいますが、その教会スタッフは冗談半分で言ったのです。私を傷つけようとして言ったのではありません。ただ、他人と比較して嫉むという堕落性はどんな人にも(教会員にも)あり、無意識にその堕落性が発動してしまうことの分かりやすい例なので、あえて書かせていただきました。 大母様のメッセージに、「寡黙でありなさい」というものがあります。言葉は他人を癒す利点がある反面、他人を傷つける欠点も合わせ持ちます。堕落性が脱げ切っていない我々の言葉は、利点より欠点の方が大きな威力を発揮します。だから大母様は、寡黙でありなさいと言われるのでしょう。ちょっと傷つくだけならまだしも、それが心情蹂躙につながれば天法違反になってしまいますので、言葉には細心の注意が必要です。 しかし、黙ってばかりいても社会生活はできません。だから私は「想像力を発揮しよう」と強調しています。 ちなみに、私は当の教会スタッフさんを恨んだり憎んだりしていません。ちょっと嫌な気分になりましたが、すぐに心の中で許すことができました。どうやって許せるのか? 実は、許しにも想像力が必要なのです。 「きっとこの人は、教会での奉仕活動を朝から晩まで真剣に、献身的に行なっているんだろうな。そういう人が、同じ教会員で構成される会社が土日休日なんて聞けば、嫌味の1つも言ってみたくなるだろうな」 こんなふうに想像できたので、その人に反論することもなく、「そうですね、現場の皆さんは苦労してますよね」と相槌を打って終わりです。 想像力を養えれば、他人を許すことができます。他人を許せるということは、他人を「心情蹂躙という天法違反者」にしないということです。自分が心情を蹂躙されたと感じなければ、相手は天的犯罪者にはなりません。 多くの人々が、自分と他人と比較しないで想像力を発揮できるようになれば、世界に平和が訪れるはずです。 |
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はじめまして!とても良い内容でした。わたしの得意な比較の心をこの想像力と言う観点で乗り越えること、というのがためになりました。ありがとうございました^^ |
まめ 2008/06/23 00:10 |
初めまして、ヒロシと申します。何時も興味深く拝見させ |
ヒロシ 2008/06/23 18:00 |
まめさん、いらっしゃいませ。参考にしていただいて、うれしいです。またコメントしてください。 |
小林浩 2008/06/23 22:28 |
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ヒロシ 2008/06/23 22:38 |
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