高級文学の香りが漂う有田芳生参議院議員の名文に感動!
民主党比例区トップ当選の参議院議員有田芳生ジャーナリストが、私のつたない記事に対して長文のコメントを書いてくださいました。国会会期中でご公務がご多忙な折、もう1つの「聖業」である「つぶやき」(4万人を超える読者が待つツィッター執筆)の貴い時間を犠牲にしてまで、こんな私へコメントしてくださるとは感謝感激であります。
『米本和広さん代理人による「警告書」(笑)を公開する』より引用。
(注:例によって、上記リンクはウェブ魚拓です。すぐに修正されてしまうので、引用箇所がちゃんと存在したという証拠として、念のための処置です。実際のブログはこちら。)
(引用はじめ)
「愛美書店」に米本さんの著作が「いま」置かれていないことは、かつて置いてあったことを現認したように、原稿を書くとき書店に確認している。それを「平積みされている」と表現したから、「いまでも」あると書いたと批判する。
日本語の時制がまったく理解できていない。「いる」とは補助動詞で「ある動作、作用が行われない状態の継続を表わす」(『日本国語大辞典』)。最初は「置かれていなかった」ものがあるときに「置かれるようになった」経過を表現しているにすぎない。後段の「なった」に対応して読むべきで、「いま」置いてあるとはどこにも書いていない。
「愛美書店」に私たちが書いた『脱会』が置かれていたこともある。そんなことは百も承知だ。
(引用おわり)
さすが文系の正統派ジャーナリストですね。『日本国語大辞典』まで持ち出されては、私のような「理系出身の単なるブロガー」には勝ち目がありません。本物の文学とは、まさにこういうものなんですね!
私の卒研の師匠はバリバリの理系博士だったもので、「論文は、誤読されないように無駄な語句は省き、一文章を極力短くせよ!」と指導されました。どうしても、そのときの癖が抜けないもので、有田芳生参議院議員のような「よく考えながら読まないと、意味を取り違えてしまう」ような高級文学の香りが漂う文章は書けません。
前回の日記で引用した有田議員の文章を、構成は崩さずに短くしますと、下記のようになります。
「愛美書店」には、米本さんの『我らの不快な隣人』が平積みされている。発売当初は「配慮」から置いていなかったが、キャンペーンが行われるようになってからは、大量に購入するようになった。
そうかあ。「平積みされている」の「いる」は、次の文章の「なった」に対応して読むべきなんだあ。う~ん、深いですね。
理系師匠の教えが抜けない私だったら、つい次のように書いてしまうところです。
「愛美書店」には、米本さんの『我らの不快な隣人』が平積みされていた。発売当初は「配慮」から置いていなかったが、キャンペーンが行われるようになってからは、大量に購入するようになった。
「いる」と書くか、「いた」と書くか。たった一文字の違いが、正統派文系ジャーナリストと理系おたくブロガーの違いなんですね。『日本国語大辞典』を毎日読まなくちゃ。
それにしても、さすが「とことん現場主義」をスローガンに掲げるだけありますね。「愛美書店」に米本さんの著作が「いま」置かれていないことは、かつて置いてあったことを現認したように、原稿を書くとき書店に確認していると、堂々と書かれています。
「かつて置いてあったことを現認した」のですね。「現認」ということは、ご自分で現場(愛美書店)にきて認められたということ。確かに一昨年、有田議員が愛美書店にご来店されたことがありました。ご自分のブログにも書かれています。
『鈴木宗男さんに普天間問題を聞いた(2009/12/17)』より引用。
(引用はじめ)
この映画の試写会が行われた「トツネビル」は統一教会本部の真ん前にある。かつて「トツネ伝道局」=「中央本部」があったはず。隣には統一教会の「愛美書店」がある。(中略)映画が終り、「愛美書店」。表参道のジムで泳ぐ。
(引用おわり)
約1年9か月前に「現認」されたのですね。しかし、今回の原稿を執筆する際は「確認」したそうです。「現認」ではないのですね。ん? 「かつて置いてあったことを現認したように」の「したように」というのは、「同じ」という意味? 今回原稿を書くときも「現認した」ということ? いやあ、高級文学は読み解くのが難しいですね。(^_^;)
今回の執筆時にも「現認」したのか、そうではないのか、できたら再度解説していただきたいです。文系じゃないもので、どうも読み解けません。
ちなみに愛美書店のメンバーに聞いたところ、原稿執筆時の9月10日以前の数日間に有田議員がご来店されてはいないとのこと。また、「米本氏の本がまだ置かれているか?」という問い合わせの電話はなかったとのこと。
ということは、少なくとも「確認している」という意味は「現認」ではないですね。よく愛美書店に来る人間に「聞いた」か、ご自身が雇っている調査員か工作員かに「書店を見に行かせた」かの、いずれかなのでしょうね。
そこまで「とことん現場主義」を貫いて、「原稿を書くとき書店に確認している」のにもかかわらず、
「愛美書店」には、米本さんの『我らの不快な隣人』が平積みされている。発売当初は「配慮」から置いていなかったが、キャンペーンが行われるようになってからは、大量に購入するようになった。
としか書かないのですから、これこそ正当派ジャーナリストの真骨頂なのでしょう。う~ん、私には到底真似ができません。私なら、そこまで事実を確認していたら、つい誇示したくなって、次のように書いちゃいます。
約1年9か月前に私が「愛美書店」を訪れたときには、米本さんの『我らの不快な隣人』が平積みされていた。発売当初は「配慮」から置いていなかったが、キャンペーンが行われるようになってからは、大量に購入するようになったのだ。先日、愛美書店を確認したところ、もう米本さんの本は置かれていなかったが云々……。
それと、
「愛美書店」に私たちが書いた『脱会』が置かれていたこともある。そんなことは百も承知だ。
と書かれていますが、これはいつ「現認」もしくは「確認」したのでしょうか? 弊社の社員ですら、「社長、いつ有田氏の本を愛美書店に置いていたんですか?」と聞いてくるくらい、知っている人が少ないはずなんです。だいぶ昔のことで、置いていた期間も極めて短かったからです。それを「現認」もしくは「確認」できるなんて、やっぱり「とことん現場主義」の正当派ジャーナリストはすごいですね。感動しました。
これじゃあ、米本さんも裁判に勝てないんじゃないですかね。有田芳生参議院議員の調査能力と記憶力と情報整理能力は、ずば抜けています。ぜひ、この能力を最大限に活かして、北朝鮮に拉致された日本人被害者を一日も早く奪還してください。
統一教会員を拉致監禁するノウハウを持っている「盟友」もいるようですから、有田議員の能力と併せてくだされば奪還は可能だと思います。高級文学を駆使すれば、相手を煙に巻く情報戦もできるでしょう。
民主党比例区トップ当選の参議院議員有田芳生ジャーナリストによる北朝鮮拉致問題解決を大いに期待します。そのためにも、米本さんとの裁判に負けて、名誉毀損を認定されて、国会議員辞任とかにならないように、お祈りしています。(たまには祈り忘れちゃうかもしれませんが、そのときはごめんなさい。)
『米本和広さん代理人による「警告書」(笑)を公開する』より引用。
(注:例によって、上記リンクはウェブ魚拓です。すぐに修正されてしまうので、引用箇所がちゃんと存在したという証拠として、念のための処置です。実際のブログはこちら。)
(引用はじめ)
「愛美書店」に米本さんの著作が「いま」置かれていないことは、かつて置いてあったことを現認したように、原稿を書くとき書店に確認している。それを「平積みされている」と表現したから、「いまでも」あると書いたと批判する。
日本語の時制がまったく理解できていない。「いる」とは補助動詞で「ある動作、作用が行われない状態の継続を表わす」(『日本国語大辞典』)。最初は「置かれていなかった」ものがあるときに「置かれるようになった」経過を表現しているにすぎない。後段の「なった」に対応して読むべきで、「いま」置いてあるとはどこにも書いていない。
「愛美書店」に私たちが書いた『脱会』が置かれていたこともある。そんなことは百も承知だ。
(引用おわり)
さすが文系の正統派ジャーナリストですね。『日本国語大辞典』まで持ち出されては、私のような「理系出身の単なるブロガー」には勝ち目がありません。本物の文学とは、まさにこういうものなんですね!
私の卒研の師匠はバリバリの理系博士だったもので、「論文は、誤読されないように無駄な語句は省き、一文章を極力短くせよ!」と指導されました。どうしても、そのときの癖が抜けないもので、有田芳生参議院議員のような「よく考えながら読まないと、意味を取り違えてしまう」ような高級文学の香りが漂う文章は書けません。
前回の日記で引用した有田議員の文章を、構成は崩さずに短くしますと、下記のようになります。
「愛美書店」には、米本さんの『我らの不快な隣人』が平積みされている。発売当初は「配慮」から置いていなかったが、キャンペーンが行われるようになってからは、大量に購入するようになった。
そうかあ。「平積みされている」の「いる」は、次の文章の「なった」に対応して読むべきなんだあ。う~ん、深いですね。
理系師匠の教えが抜けない私だったら、つい次のように書いてしまうところです。
「愛美書店」には、米本さんの『我らの不快な隣人』が平積みされていた。発売当初は「配慮」から置いていなかったが、キャンペーンが行われるようになってからは、大量に購入するようになった。
「いる」と書くか、「いた」と書くか。たった一文字の違いが、正統派文系ジャーナリストと理系おたくブロガーの違いなんですね。『日本国語大辞典』を毎日読まなくちゃ。
それにしても、さすが「とことん現場主義」をスローガンに掲げるだけありますね。「愛美書店」に米本さんの著作が「いま」置かれていないことは、かつて置いてあったことを現認したように、原稿を書くとき書店に確認していると、堂々と書かれています。
「かつて置いてあったことを現認した」のですね。「現認」ということは、ご自分で現場(愛美書店)にきて認められたということ。確かに一昨年、有田議員が愛美書店にご来店されたことがありました。ご自分のブログにも書かれています。
『鈴木宗男さんに普天間問題を聞いた(2009/12/17)』より引用。
(引用はじめ)
この映画の試写会が行われた「トツネビル」は統一教会本部の真ん前にある。かつて「トツネ伝道局」=「中央本部」があったはず。隣には統一教会の「愛美書店」がある。(中略)映画が終り、「愛美書店」。表参道のジムで泳ぐ。
(引用おわり)
約1年9か月前に「現認」されたのですね。しかし、今回の原稿を執筆する際は「確認」したそうです。「現認」ではないのですね。ん? 「かつて置いてあったことを現認したように」の「したように」というのは、「同じ」という意味? 今回原稿を書くときも「現認した」ということ? いやあ、高級文学は読み解くのが難しいですね。(^_^;)
今回の執筆時にも「現認」したのか、そうではないのか、できたら再度解説していただきたいです。文系じゃないもので、どうも読み解けません。
ちなみに愛美書店のメンバーに聞いたところ、原稿執筆時の9月10日以前の数日間に有田議員がご来店されてはいないとのこと。また、「米本氏の本がまだ置かれているか?」という問い合わせの電話はなかったとのこと。
ということは、少なくとも「確認している」という意味は「現認」ではないですね。よく愛美書店に来る人間に「聞いた」か、ご自身が雇っている調査員か工作員かに「書店を見に行かせた」かの、いずれかなのでしょうね。
そこまで「とことん現場主義」を貫いて、「原稿を書くとき書店に確認している」のにもかかわらず、
「愛美書店」には、米本さんの『我らの不快な隣人』が平積みされている。発売当初は「配慮」から置いていなかったが、キャンペーンが行われるようになってからは、大量に購入するようになった。
としか書かないのですから、これこそ正当派ジャーナリストの真骨頂なのでしょう。う~ん、私には到底真似ができません。私なら、そこまで事実を確認していたら、つい誇示したくなって、次のように書いちゃいます。
約1年9か月前に私が「愛美書店」を訪れたときには、米本さんの『我らの不快な隣人』が平積みされていた。発売当初は「配慮」から置いていなかったが、キャンペーンが行われるようになってからは、大量に購入するようになったのだ。先日、愛美書店を確認したところ、もう米本さんの本は置かれていなかったが云々……。
それと、
「愛美書店」に私たちが書いた『脱会』が置かれていたこともある。そんなことは百も承知だ。
と書かれていますが、これはいつ「現認」もしくは「確認」したのでしょうか? 弊社の社員ですら、「社長、いつ有田氏の本を愛美書店に置いていたんですか?」と聞いてくるくらい、知っている人が少ないはずなんです。だいぶ昔のことで、置いていた期間も極めて短かったからです。それを「現認」もしくは「確認」できるなんて、やっぱり「とことん現場主義」の正当派ジャーナリストはすごいですね。感動しました。
これじゃあ、米本さんも裁判に勝てないんじゃないですかね。有田芳生参議院議員の調査能力と記憶力と情報整理能力は、ずば抜けています。ぜひ、この能力を最大限に活かして、北朝鮮に拉致された日本人被害者を一日も早く奪還してください。
統一教会員を拉致監禁するノウハウを持っている「盟友」もいるようですから、有田議員の能力と併せてくだされば奪還は可能だと思います。高級文学を駆使すれば、相手を煙に巻く情報戦もできるでしょう。
民主党比例区トップ当選の参議院議員有田芳生ジャーナリストによる北朝鮮拉致問題解決を大いに期待します。そのためにも、米本さんとの裁判に負けて、名誉毀損を認定されて、国会議員辞任とかにならないように、お祈りしています。(たまには祈り忘れちゃうかもしれませんが、そのときはごめんなさい。)
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